担々麵(タンタンメン)を通して地域を読む
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北海道でも日増しに温かくなりました。温かくなると、特に夏になると無性に辛い料理が食べたくなるとよく耳にします。
その理由は、トウガラシをはじめとする辛味系スパイスの発汗作用が、関係しているそうです。
スパイスライフアドバイザーの大平美弥氏によれば、気温が高い夏は、汗をかくと体の熱が放出されて涼しく感じることがあります。なかでも、刺激的な辛みを持つトウガラシは発汗作用を促すため、トウガラシをたっぷり使った料理は、夏にぴったりで理にかなっているんです。
辛いものと言えば、何を思いつきますでしょうか。
トウガラシがまず思いつくのではないでしょうか。トウガラシは料理にアクセントを足してくれる、スパイス界の王様と言っても過言ではなかろう。トウガラシの歴史について興味深い本があります。元朝日新聞社の編集委員で同志社大学教授の加藤千洋氏が激辛をめぐる旅に出て、地道な現地調査を経て書いた『辣(ラー)の道――トウガラシ2500キロの旅』という本です。この1冊を読めば、トウガラシについてだいぶ詳しくなるはずです。この本を読んだ影響かもしれません、トウガラシを見たら写真を撮る習慣となりました。
トウガラシを言及したら、2009年8月、韓国に行った際に、春川市で見かけたトウガラシの天日干す場面を思い出します。
さて、先の質問に戻りますが、辛いものと言えば、キムチ、チゲ鍋、マーボー豆腐、辛ラーメン、担々麺などなどが思いつくのではないでしょうか。
以下では、この中国四川をルーツとする
越境食の担々麺
について簡単に紹介します。
四川料理の担々麺に対し、日本人の多くは辛い中国の麺料理というイメージを持っているかもしれません。
しかし、この料理が誕生した歴史に視点を移すと、そのイメージとは異なるしゃれっ気に富んだ側面が浮かび上がります。
担々麺が登場したのは、1841年頃です。当時、担々麺は物売りが天秤棒を担いで連呼しながら街中で売り歩いたことから広まりました。天秤棒の片方には、練炭焜炉がかかっており、その上には鍋が二段構造で設置してあり、麺をゆでる部分と鶏を煮込む部分に分けられていました。もう片方には茶碗、箸、調味料、そして洗い桶がかかっていました。
このように担々麺は、辛い中華麺だけではないです。食文化というのは多様な側面を持ち、なおかつ奥が深いです。
数年前、札幌市内のある語学教室で、四川料理を題材に講義したことがあります。講義終了後、ある女性の受講者が担々麺を食べたくなったと言い、札幌の担々麺の美味しい店を紹介してくださった。担々麺を探求する旅を続けていきます。
参考文献
加藤千洋『辣(ラー)の道――トウガラシ2500キロの旅』平凡社、2014年。
夏に辛い料理が食べたくなるのはなぜ? スパイスマスターが教える唐辛子の豆知識
インスタントラーメンを通して地域を読む
ご訪問ありがとうございます。
麺の文化史について調べる作業を進めています。本日、インスタントラーメンにつぃて簡単に紹介します。
ここで、一つ質問です。
インスタントラーメンと言えば、ブログをご覧になった皆さんは、何を連想しますか。
「日清食品」を思いつく方が多いのではないかと思います。
私が「日清食品」とインスタントラーメンを結びつけるようになったのは、10数年前、札幌雪まつり期間中、大通公園会場で、「日清食品」の雪像を見たのがきっかけです。
その雪像を見て、なぜ「日清食品」の雪像?
「日清食品」の創業者は誰?
次々と質問が浮かび、調べてみました。
「日清食品」の創業者は、「ミスターヌードル」と呼ばれた安藤百福(1910~2007)。安藤百福は日本統治時代の台湾出身で、出生名は呉百福です。妻の安藤仁子と結婚したことで、安藤百福を名乗るようになったのです。
1958年、安藤はチキンラーメンを発明し、1971年、安藤は再び世界を驚かす新商品「カップヌードル」を発明しました。袋麺からカップ麺へ変わりました。
この小さな変化によって、日本生まれのインスタントヌードルは、国境を超えた広がりをみせました。いまやインスタントラーメンは、日本で年間約55億食、世界で年間約1000億食が消費される世界食となりました。
インスタントラーメンは、越境人によって発明された越境食です。
今でも、インスタントラーメンを食べるとき、札幌雪祭り会場の雪像と安藤百福が思い浮かびます。
参考文献
・安藤百福『インスタントラーメン発明王:安藤百福かく語りき』
中央公論新社、2007年。
・安藤百福:世界の食文化を変えたミスターヌードル
安藤百福:世界の食文化を変えたミスターヌードル | nippon.com
ラーメンを通して地域を読む
ご訪問ありがとうございます。昨日、ジャージャン麺の越境史について簡単に紹介しました。
本日は、日本ラーメンの歴史について現段階調べたものを紹介いたします。
数年前、文化人類学者の石毛直道が書いた『麺の文化史』を読み、麺の文化史について興味関心を持ち始めました。調べれば調べるほど、麺の文化史や食の文化史の奥深さを日々実感しています。
一言麺と言っても、たくさんの種類がありますね。身近な日本ラーメンの歴史について調べています。
2018年11月11日、横浜で開催する学会で通訳の機会を得て、横浜に旅しました。学会終了後、北海道に戻る前に、学会の会場近くの新横浜ラーメン博物館(ラー博)を見学しました。
当日、ラー博内は多くの方で賑わっていました。また、ラーメンの歴史についての展示も非常時豊富で、見応えがありました。
ラー博の館内の展示とホームページの記載によれば、日本ラーメンの歴史は、5回の変遷がありました。
1. ラーメン夜明け前
2. ラーメン黎明期
3. ラーメン定着期
4. ラーメン発展期
5. ラーメン多様化期
また、その各時期には、さらに時系列でいろいろな出来事があって、なかなか興味深い!
私が特に関心を持っているのは、ラーメンの越境史です。
ラー博のホームページの記載によれば、日本ラーメン夜明け前において
「水戸光圀が、日本人として初めて中華麺を食べる。儒学者朱舜水が、光圀の接待に対して自分の国の汁そばをふるまった。」
つまり、「水戸黄門」こと、徳川光圀(とくがわみつくに)が、日本人として初めて中華麺を食べたとのこと、その中華麺を持ち込んだのは、儒学者の朱舜水でした。言わば、人の移動に伴って、食文化の移動も起きたのです。
参考文献
・石毛直道『麺の文化史』講談社学術文庫、2006年。
・新横浜ラーメン博物館ホームページ
ジャージャン麺を通して地域を読む
本日、ジャージャン麺を通して地域を読み解いてみます。
炸醤麺(ジャージャンミエン zhá jiàng miàn)は、中国山東省に起源して、主に中国東北地域、華北(北京・天津)、河南省、四川省などの家庭料理です。また、日本風ジャージャン麺(盛岡じゃじゃ麺)及び韓国風ジャージャン麺(짜장면)もあります。
本日は主に、山東にルーツをもつジャージャン麺が中国各地、そして日本と韓国まで伝わった経緯について紹介します。
かつて山東から国内の東北地域に多くの移住者を送り出し、海外には朝鮮半島に多くの移住者を送り出しました。人が移動する際に食文化も一緒に持ち込んだのは、容易に想像できます。
中国東北地域には、戦前、日本からも多くの人々が移住しました。そのなかに長野県をはじめ、北海道、岩手県などからの移民も多かったのです。
盛岡じゃじゃ麺の創案者とされる、白龍創業者の高階貫勝(たかしなかんしょう)さんが戦前、中国東北地域で食べてきた炸醤麺をもとに、引き揚げた盛岡で地元の人々の舌に味を合わせてアレンジしを加えました。
韓国のジャージャン麺(짜장면)は、かつて山東からの移民が持ち込みました。韓国の華僑は山東出身者が多いです。
韓国料理の中でもリーズナブルな値段であり、韓国人もよく食べるこのジャージャン麺。ジャージャン麺博物館がオープン(2012年4月)するほど、ジャージャン麺は韓国の国民食と言っても過言ではありません。2019年5月、韓国に行った際にジャージャ麺博物館見学しました。
ジャージャ麺博物館
ジャージャン麺博物館は、仁川のチャイナタウンの中に位置しています。かつてこの辺りは仁川市内でも貿易の主要な場所として栄え、チャイナタウンだけでなく日本人街もあり、他国との交流が盛んでした。その時に持ち込まれ発展したのがジャージャ麺です。
以上で見てきたように、越境する食文化のジャージャン麺が日中韓(の人々)を結びつけました。
韓国チャイナタウン(韓国仁川広域市)
参考情報
目時和哉「岩手の麺が持つちからーー周縁的文化受容と創造の一類型としてーー」『岩手県立博物館だより』№132、2012年3月、4-5頁。
【書評】『港の日本史』
ご訪問ありがとうございます。
本日、吉田秀樹+歴史とみなと研究会『港の日本史』(祥伝社新書、2018年)について紹介します。
余談の話ですが、本書を紹介する前に、私の港についての考えを少し紹介します。
以前、別のブログで書いたことがあります。
私の専門分野の一つが言語学です。母国語中国語のほか、日本語、韓国語、英語など勉強してきました。言語を学ぶ時および教える時、語源を大事にしています。なぜならば、語源が分かれば、芋づる式で関連単語をいっぱい覚えるからです。港(port)を語源とする関連単語をみましょう。
sports、import、 export、 airport、passport、 support 、 report・・・関連単語を見て分かるように、港(port)を語源とする単語は、スポーツ、輸入、輸出、空港、パスポート、サポート、レポートなど、日常生活でよく接する単語です。それゆえに、港(port)は重要です。 |
<目次>
はじめに
第1章 「港」でわかる日本の7000年史
第2章 政治権力とともに栄えた港
第3章 世界史に名を残す日本の港はどこか
第4章 江戸の物流ネットワーク
第5章 明治150年と近代の港湾
第6章 激動の時代を生きる港
本書を読んで驚いたのは、日本には計933港が存在することです。著者の吉田秀樹氏は運輸省(現・国土交通省)で港湾関係の業務に長年従事したプロフェショナルです。本書はプロフェショナルの視点で日本各地の港をまとめ、今日に連なる日本各地の主な港が網羅されています。
「みなと」の「み」は「水」、「な」は「~の」、「と」は「門」の意味です。
吉田秀樹氏の説明に従えば、「港」「水門」「湊」など多種多様な「みなと」の呼称と種類がありました。
海洋立国の日本にとって「港」は、人々の生活に欠かせないインフラとして交通・物流の拠点であると同時に、都市開発や権力闘争の舞台でもありました。
本書は、港によって形成された日本の文化の要素を視野に入れて、古代からの日本の海外文化の関係、港を中心に発達した諸都市と経済・商業など、「みなと」を媒介に「港」の専門家が「港」日本史を複眼で読む斬新な試みです。
港は人とともに歴史を歩んできた。そしてこれからも、港は人とともに未来をつくってゆく。244頁
下記の「著者・吉田秀樹さんに聞くという」記事も見つかったので、ご関心のある方はご参考ください。
933の港は、わずか数箇所しか回っていません。本書を片手に取りながら、港を訪ねる度も継続していきたいと思います。
【書評】『異文化理解』(青木保、岩波新書、2001年)
本日、文化人類学者の青木保氏の『異文化理解』(岩波新書、2001年)について紹介します。
出版社内容情報
異文化との接触・交流が拡大した現在、異文化間の衝突、ステレオタイプの危険、文化の画一化など、課題も多い。混成化する文化状況を見据え、文化人類学者としての体験や知見から真の相互理解に必要な視点を平易に論じる。
目次
1 異文化へ向かう(文化は重い;異文化を憧れる)
2 異文化を体験する(バンコクの僧修行;境界の時間;儀礼の意味)
3 異文化の警告(異文化に対する偏見と先入観;ステレオタイプの危険性;文化の衝突)
4 異文化との対話(文化の翻訳;「混成文化」とは;文化の境界に生きる;自文化と異文化)
日本人にとって「異文化」といえば、近隣のアジアの文化を指すことではなく、ヨーロッパやアメリカを指すことが多いようです。青木保氏によれば、「近隣国の中国や韓国を『異文化理解』の対象として正面から捉えるという視点を、近代日本は持つことができなかった」と述べています。
私も異文化理解は遠いところからではなく、身近いところから始める必要があると思います。中国と韓国は日本と一衣帯水の国でありながら、日本の文化と言葉も生活習慣も大きく異なっています。日本・中国・韓国は相互依存しながら、一番摩擦が多い国同士でもあるため、相互の「異文化」を理解する必要があると考えます。
中国語と日本語のひびきの違い、その美しさを互いに味わうことから、異文化理解を通してこの相互信頼への道が開かれるものと考えます。これは時間のかかる気長な努力をしなければならないことですが、教育も含め日本社会が全体として取り組む大きな課題だと思います。そうした『異文化理解』を通して、また『自文化』も見出され、日・中・韓のつながりの深さも認識されることになります。191-192頁
異文化理解にはいろいろな方法がありますが、異文化の理解から自文化の理解に至るという方法もありますし、また自文化を発見して異文化へ到達する、というやり方もあります。
多くの場合、世界の文化はどこかで互いに影響しあいながら形成されていますから、特にアジアのように歴史的に古い地域ではどこかでみな交渉しあっているはずです。そのとき自文化を発見するとは、異文化との交流を発見することにほかなりません。190頁
「自文化の発見」にはもう一つ、自文化と思っているものをもう一度異文化として捉え直すという意味もあります。シェークスピアの文章は若干のいいまわしや古い表現を除けば今のイギリスの中高生ならそのまま読めると言われていますが、日本語は違います。単語や文体や表記法、字体も様変りしましたが、日本の王朝時代の書物はもちろん、明治以前に書かれたものは、大人でもいまやなかなか読めないものになっています。それだけ違ってしまったのは、すでに一種の異文化と言っていいと思うのです。ひいては現在の日本文化についても誤った理解に到達する恐れがあります。
過去の書物の正確でかつ面白い読み方は、それらに対してきちんと異文化として対するところから始まるような気がします。同様に、日本の過去の文化全体に対しても、異文化理解という視点からもう一度見つめ直す必要があると思います。日本の古代や中世と現在では、言語や制度や基本的な文化要素もかなり違います。文章同様、過去と現在と安易に連続的なものとして捉えることは、自国の歴史や自文化についても正確な理解に達せられない部分があるのではないでしょうか。193頁
私は自文化と異文化は、相反するモノでなく、共通する分母をもっています。それはヒトの生き方という共通分母だと思います。外国の文化を研究するということは、必然的に自国の文化を含むことになり、また、自国の文化を理解するためには、それを映し出す鏡として外国文化を知ることが欠かせません。
【書評】『ナマコの眼』(鶴見良行、ちくま学芸文庫、1993年)
ご訪問、ありがとうございます。
本日、日本のアジア学者・人類学者鶴見良行氏の『ナマコの眼』(ちくま学芸文庫、1993年)について紹介します。
鶴見良行氏について簡単に紹介します。
鶴見良行氏(1926-1994)は、外交官であった鶴見憲の息子としてアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。アメリカのプラグマティズムの紹介や「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を設立したことで知られる哲学者・評論家の鶴見俊輔は従兄、社会学者で知られる鶴見和子は従姉です。すごい一族です。
鶴見氏は生前、ナマコ、バナナ、エビなどの食物・交易品を手がかりに漁民や少数民族の立場から歴史を問い続けてきました。
本書は、約600ページ以上をそんなナマコの話ばかりで埋め尽くした「ナマコ大全」とでも呼ぶべき一冊です。アジアへの眼差しを深め続ける鶴見良行氏が、約20年間の熟成を経て、遂に完成した歴史ルポルタージユ大作です。名著としての誉れも高い本で、新潮学芸賞を受賞しました。
鶴見氏の視線は、歴史にとどまらず、食文化と文学にも届きます。さらに自分の足で各地を旅することで、叙述に厚みとふくらみも出てきています。知的好奇心をかきたててくれる本。
本書では、国家や植民地宗主国がつくる障壁をやすやすと越えて、ナマコの交易を通して多くの人々がつながってきた数百年の歴史を語ります。登場するのは、南太平洋のカナカ族、チャモロ族、マニラメン、フィジー島民、オーストラリアのアボリジニー、ニューギニアのパプア人、東南アジアのマカッサル人、ブギス人、バジャウ人、スルー島民、朝鮮人、中国の越人、漢人、日本列島の漁民、アイヌ、東北アジアのツングース人・・・
さて、なぜナマコなのか? 鶴見良行氏は、その理由を下記のように綴っています。
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国家を単位として歴史を記述できるのは、ごく限られた時代と 土地にすぎない。それに歴史家たちは英雄に光を当てて記述しているから、歴史は多くの場合、中央の座に坐っている権力者の眼から見た歴史になってしまう。
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ナマコを借りて人類、ヒト族の歩みを語ろうとするのは、国家史観、中央主義史観への異議申し立てのつもりである。国家史観、中央主義史観では、ナマコ語やマニラメン(中略)は見えてこない。ナマコがそう語っているように、私には聞えてくる。115頁
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『ナマコの眼』の文末に鶴見良行氏が驚く事実を明かします。
星くずから太陽を眺め、ナマコの眼を借りてヒト族の歴史と暮しを考えてきた。もとよりナマコに眼はない。これは仮空に視線を合わせ事実を追った一片の物である。554頁
なるほど、ナマコには目がありません。鶴見は健全な批判精神を持ってナマコを代弁して語ったのです。本書で鶴見がナマコを代弁して語る箇所はまだあります。
ナマコの眼を借りてヒト族の歴史を書き始めた私を、海底に横たわったナマコが見上げ、私の思考のなぜかくも遅きかと嘆いているかもしれない。海底にある生物のかそけきつぶやきが聴こえてくるような気がする。
ナマコにだって歴史を語る資格はある。555頁
鶴見良行氏のナマコ研究は机上の研究ではなく、丹念に人間とナマコとの関わりを追ってきました。ナマコの視座から、アジアと日本の歴史を眺めています。鶴見は研究について次のように述べています。
研究とは面白いもので、それまで歴史の闇に沈んでいた生物やヒトに墓碑を建て冥福を祈るようなところがある。100頁
私は鶴見良行氏の研究姿勢に敬意を払います。どなたでも、鶴見が提示したナマコの眼に注目すれば、読み取れるものが多いでしょう。