宮崎駿を通して地域を読む

ご訪問、ありがとうございます。

 

本日、宮崎駿を通して東アジアを読み解いていきたいと思います。

宮崎駿については、知らない方はいないと思いますので、紹介は省略します。

ただし、宮崎駿については、人によって見方が違うと思います。

 

羅生門的視点で宮崎駿を見ることができるといえよう。

 

 

 

 

本題に入る前に余談です。

これはわたしだけの経験かもしれませんが、30歳近くなるまで、

漫画やアニメは、子供だけに属するもので、自分とは関係ないと思っていました。

 

学部時代、ゼミ室で、

恩師のHM先生が漫画(コナンだったと思います?)を読んでいる場面を見て、

笑ったことがありました。

「漫画を読まないと一人前の研究者になれないぞ!」とHM先生に言われました。

その時、「何を言ってるんですか?」と聞き流しました。

 

今、考えれば、はなはだしく恥ずかしい。

はなはだ失礼なことをしたと反省しています。

漫画もアニメも立派の文化だと思うようなりました。

その意識が転換したのは、いくつのきっかけがありました。

主には以下の3つです。

  1. 結婚して子供が生まれて、一緒に漫画やアニメを見ることになったこと。
  2. 2011~2013年、大学の中国事務所で長期滞在期間中、                             多くの中国人の大学生と接し、アニメについて意見交換ができたこと
  3. 2017年、通訳として第4回新千歳空港国際アニメーション映画祭に参加したこと

 

 

ここで、上記で言及したきっかけ2について、少し補足します。

2011~2021年、大学の北京事務所の職員として、

大学のPRと日本に留学したい中国人大学生の相談役などを務めていました。

いうまでもなく大学や日本(北海道)の生活などの紹介がメインでした。

 

個人面談の際には、度々宮崎アニメが話題となりました。

驚くほど、多くの中国人の若者が、宮崎駿について詳しい。

しかし、2011年当時、宮崎駿のすごさは知っていましたが、

作品自体は、『崖の上のポニョ』しか見ていなかったのです。

それで、北京の一番大きい書店に行って、宮崎駿監督作品集 [DVD]を購入しました。

 

 

 

約1ヶ月間をかけて作品集の9作品を全部見ました。

特に印象に残ったのが『千と千尋の神隠し』です。

つまり、ある意味で、わたしは日本の外で、本気で宮崎駿のアニメと「出会った」のです。

 

2017年、通訳として第4回新千歳空港国際アニメーション映画祭に参加したことをきっかけに、アニメについて、本気に研究をスタートしました。

 

 

 

現段階、作品は主に宮崎駿監督の作品を中心に見て、研究を進めています。

関連書籍や論文をだいぶ集めてきました。

非常勤講師先の授業や研修にも、適宜にアニメと漫画の要素を取り入れるようにしています。

 

わたしの研究は、文献資料はもとより、インタビューも重視しています。

いままで、中国人だけではなく、韓国人にもインタビューを進めています。

嬉しいことは、宮崎駿監督は、中国でも、韓国でも広く知られていることです。

その意味で、宮崎駿監督のアニメは、日本と中国、日本と韓国の交流の架け橋となっているといえよう。

 

 

参考文献

切通理作宮崎駿の<世界>』ちくま新書、2001年。

ミスター日本映画の高倉健を通して地域を読む

本日は、ミスター日本映画と呼ばれている高倉健(たかくらけん)を通して東アジアを読み解いてみたいと思います。

 

 

高倉健は1931年に福岡県中間市生まれ。小学校のときに疎開八幡市へ移転しました。明治大学商学部を卒業した後、1955年、東映第2期ニューフェイスに補充編入されました。

数多くの映画に出演した後、1976年、高倉健はフリーとなり、翌年に公開された超大作『八甲田山』や初の松竹映画『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』でキネマ旬報主演男優賞など、その年の賞を総なめし、“ミスター日本映画”として不動の地位を築きました。


 

ここで一旦話が変わりますが、1976年、文化大革命終結した。その後、中国で日本映画が大ブームとなりました。1978年から1991年まで、76本の日本映画が中国全土で公開され、高倉健栗原小巻中野良子山口百恵などの日本人スターが注目され、特に高倉健がカリスマ的存在でした。

そのきっかけは、高倉健主演の『君よ憤怒の河を渉れ(中国語題:追捕)』(1976)が、1979年に中国で公開されるや、何と10億もの中国国民が鑑賞したといわれ、高倉健は中国人にとって最大級の日本人スターとしてリスペクトされるようになりました。

 
 

 

あらすじ

東京地検検事の杜丘(高倉健)は、ある日新宿の雑踏の中で見知らぬ女性から「強盗殺人犯」と騒がれ、その場で緊急逮捕された。

杜丘にはまるで身におぼえのないことだったが、証拠が揃いすぎていた。杜丘は家宅捜索の隙をみて逃亡した。 その日から、憤怒に燃えた逃亡の旅が始まった・・・

 

 

映画が大ヒットしたことも関連して、青山八郎が作曲した映画の主題曲♪ダ~ヤダ~は、大ブームとなった。少なくとも現在50代以上数億人の中国人で、この主題曲を口ずさめない人はいないと言われています。

 

 

ダーヤラーダヤララダヤララー ダーヤラーダヤラダダヤララー ダヤラーヤラダーヤラダーヤラー ダヤラーヤラダーダヤラーァー

 

 

悲しいことに、2014年11月10日、高倉健が亡くなりました。

日本だけではなく、中国でも今、多くの人が高倉さんのご冥福をお祈りしていることでしょう。

 

 

参考文献

・劉文兵『中国10億人の日本映画熱愛史――高倉健山口百恵からキムタク、アニメまで』集英新書、2006年。

・『週刊朝日臨時増刊 追悼高倉健』第119巻第55号、朝日新聞出版、2014年12月15日発行。

黒澤明を通して地域を読む

ご訪問ありがとうございます。

本日、映画界の巨匠黒澤明を取り上げます。

黒澤明をご存知でしょうか?“世界のクロサワ”と言われるほど、尊敬してやまない伝説の映画監督です。

 
 

黒澤明のプロフィール

1910年3月23日、東京生まれ。

画家を目指していたが、自立するため、1936年にP・C・L(後の東宝)に入社。

脚本家として評価を得ていた1943年、「姿三四郎」で監督デビュー。有望な新人として期待される。

羅生門」(1950年)がヴェネツィア映画祭金獅子を受賞してからは、“世界のクロサワ”と呼ばれ、日本を代表する監督として活躍。

1998年9月6日逝去。

 

わたしが初めて、黒澤明の映画を観たのは、

学部時代、大学の図書館で観た黒澤の処女作「姿三四郎」でした。

 

 

映画は、主人公の姿三四郎が人間的に成長する過程を、生き生きと描いていました。

強い印象が残りました。

姿三四郎」を観た後、すっかり黒澤明のファンになって、

次々と「羅生門」「生きる」「七人の侍」などの映画を観賞しました。

 

今まで観てきた黒澤映画のなか、

わたしが一番印象に残っているのは、「羅生門」です。

 

 

今回、この「羅生門」を中心に紹介します。

羅生門」は、黒澤明が“世界のクロサワ”として、

認められた作品だけではなく、日本映画の質の高さを世界に知らしめるきっかけになった記念碑的作品です。

映画の原作は芥川龍之介の短編小説「藪の中」。

有名な脚本家の橋本忍が脚色し、黒澤明はこれに同じ芥川の「羅生門」を加えて、物語を膨らませ、無声映画時代のブリミティブな映像美と実験的精神で映画化を試みたのです。

 

 

映画のあらすじ

舞台は平安時代。森の中で侍が殺された。逮捕された野獣のような男、被害者の妻であり強姦の被害者でもある女、事件直後に現場に居合わせた目撃者、そして霊媒師に呼び出された被害者(侍)の声、四者四様の証言が投げ出されて、観客を混乱させ、考えさせられる。

 

 

 

羅生門」は、映画人だけではなく、

羅生門効果(Rashomon effect)という学術用語ができるほど、学術研究の世界にも一石を投じました。

欧米の学術界でも、Rashomon(羅生門)という言葉が広く知られています。そのきっかけを作ったのは、アメリカの文化人類学者のオスカー・ルイスです。ルイスは、20世紀の前半、メキシコの貧しい5つの家族に着目して、貧困問題についての研究を始めました。

貧困の文化(culture of poverty)は、

ルイスの著書『貧困の文化――メキシコの“五つの家族”』の中で用いた表現で、貧困者が貧困生活を次の世代に受け継ぐような生活習慣や世界観を伝承しているという考えです。

 

ルイスは、さまざまな視点=「羅生門的視点」から貧困についてアプローチしました。

学術世界で「羅生門的視点」が注目され、貧困問題を、単なる経済的な問題ではないことを雄弁に語ったのです。ルイスは、黒澤映画の「羅生門」から影響の受けたようです。

 

わたしが黒澤映画のなかで、特に「羅生門」に注目するのは、ルイスの研究からも触発を受けたからです。わたしはいま、「羅生門的視点」で、日本ないし世界(とりわけ東アジア)を眺めるように意識しています。

語学研修、ゲストティーチャー、市民講座、公開講座などで、わたしは「羅生門的視点」を意識しながら、進めています。

 

人、地域、国、世界・・・を眺める際に、

白黒で性急に決めつけるのではなく、さまざまな視点から見ることが重要ではないかと自分自身に問いかけています。

 

ブログで、何かのテーマについて、一つの視点を提示しています。

何か、偉そうに、正解を与えるつもりは、まったくありません!

ブログをご覧になっている方も、ご自身の視点を模索してほしいと願います。

 

黒澤明監督の第1作「姿三四郎」から遺作「まあだだよ」まで、黒澤映画の30本は20世紀の重要な遺産のひとつとなりました。

これからも黒澤映画は、日本国内だけではなく、国境を越えても人々に愛されつづけると信じます。

参考文献

・映画「羅生門」監督:黒澤明、原作:芥川龍之介、主演:三船敏郎志村喬京マチ子ほか

・『キネマ旬報 追悼 黒澤明』1998年10月下旬秋の特別号

・ルイス,オスカー著、高山智博・染谷臣道・宮本勝訳『貧困の文化』ちくま学芸文庫、2003年

芥川龍之介羅生門青空文庫、2021年8月18日閲覧

https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html

芥川龍之介「藪の中」青空文庫、2021年8月18日閲覧

https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/179_15255.html

作家五木寛之さんを通して地域を読む

本日、作家の五木寛之さんを通して地域を読み解いてみます。

余談ですが、20年前に留学しに日本に来た時、知人に日本には二人の大物の五木がいると言われました。

一人は歌手の五木ひろしさん、もう一人は作家の五木寛之さん。その後、紅白歌合戦などで五木ひろしの歌は、よく聴きました。

仕事柄、本はよく読むほうだと思います。年間、200冊ぐらいは読んでいますが、群がりがありました。好きで読んだのは、言語系や比較文化、そして歴史学などの学術の本がメインです。小説やエッセーの読む量が少なかったです。

そのことに気づいた後、なるべく小説やエッセーも読むようにしています。最近、はまっているのは五木寛之さんの本です。

私が一番関心を持つのは、五木さんが越境体験に基づき、書かれた書物です。

本日は、そのうち2冊を参照しながら、五木寛之さんについて紹介します。

略歴をみましょう。

 

五木 寛之(いつき ひろゆき)は、1932年、教員の松延信蔵とカシエの長男として福岡県八女郡に生まれます。生後まもなく朝鮮半島に渡り、父の勤務に付いて全羅道京城(現:ソウル)など朝鮮半島各地に移ります。少年時代は、父から古典の素読や剣道、詩吟を教えられました。第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母が死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて1947年に福岡県に引き揚げます。

 

1966年『さらば モスクワ愚連隊』で第6回小説新人省、1967年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞、2002年に第50回菊池寛賞、2009年にNHK放送文化賞、2010年に『親鸞』で第64回毎日出版文化賞特別賞・・・

 

 

引き揚げ後は父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えました。その後、福岡、東京、金沢と移り住んだ経歴からくるデラシネの思想がいろいろな作品に滲みます。

 

五木寛之さんは引き揚げという痛切の体験をしたから、建設的な批判精神を持っています。政治学者の姜尚中さんとの対談で、次のように述べています。

 

僕は、国家が崩壊した1945年を、平壌ピョンヤン)で迎え、38度線を徒歩で越えて帰国しました。

植民地にいた日本人の自分が国家から見捨てられたことを身に染みているので、いまの国家は国家のためにあって、国民のためにあるのじゃんない、という信念になっています。

ですから、国が信じられないからといって、今更慌てるな、とも言いたい気持ちがあります。

 

また五木さんは、波乱万丈の人生を振り返りながら、著書『不安の力』のなかで、不安と向き合い、乗り越える作法について詳しく紹介しました。

 

 

2005年に書かれた本でですが、今読んでも見劣りのしない本です。むしろ、今時代こそ、読む価値があると思います。何度も何度も読み返しました。

 

 

 

最後に、『不安の力』のなかで、私が元気づけられた一節を紹介して、本日のブログ記事を閉じます。

 

ぼくが転がる石のように生きていきたいと思っていました。そのためには、どこかが歪んでいたり、傾いていたほうがいいのです。

不安には、〈不安定〉という意味もあります。そう考えたとき、不安はものが転がっていくために必要な力である、といえるのではないでしょうか。

 

参考文献

五木寛之『不安の力』集英社文庫、2005年。

五木寛之姜尚中『漂流者の生きかた』東京書籍、2020年。

海峡を渡るバイオリンを通して地域を読む

13日のクラシック音楽の続きで、本日はバイオリンをめぐって話を進めます。

クラシックを含め、音楽が人にもたらす効果について皆さんの関心が高まっていると思います。実は2005年頃まで、クラシック音楽を難しいと敬遠していました。ヨーヨー・マとの「出会い」によって、クラシック音楽も聴くようになり、好きになりました。

特に2017年と2019年、日中青年音楽交流の通訳を担当したことで、音楽について関心がもっと高まりました。

 

 日中青年ふれあいコンサート(2019年in安平町)

 

私が音楽に関心を持つのは、音楽鑑賞のリラクセーション効果を望む一方、長年の通訳の現場体験を通して、音楽は関係改善の効果もあると思うからです。

 

さて、本日の本題です。

サブタイトルに付けてある『海峡を渡るバイオリン』は、「東洋のストラディバリ」の異名を持つ、バイオリン製作者・陳昌鉉(チンショウゲン)さんが書いた本のタイトルから取りました。

私が初めて陳昌鉉さんの名前を知ったのは、確かに2006年頃でした。

大学院生時代、北海道大学の図書館で、ヨーヨー・マに関する資料を調べている時、偶然雑誌『月刊日本語』で陳昌鉉さんの特集記事を見つかりました。

 

陳昌鉉さんの略歴をみましょう。

 

1929年、韓国慶尚北道金泉郡(現金泉市)生まれ、バイオリン製作者。1943年、14歳で日本に渡り、差別や貧困を乗り終えながら、独学でバイオリン作りの道を歩んでゆく。明治大学英文学科卒業後、バイオリン製作を独学。1976年、国際バイオリン・ビオラ・チェロ製作者コンクールにて全6種目を金賞受賞、1984年、アメリアバイオリン製作者協会より無鑑査製作家の特別認定とマスターメーカーの称号を授与される。

 
 
 

           若い時の陳昌鉉さん

 

陳昌鉉さんは著書のなかで、日韓両国の戦後史を背景に、世界的な名匠になるまでの波乱の半生を描きました。

また、この著書は漫画化やドラマ化もされました。草薙剛が扮する陳昌鉉のドラマは感動的です。ドラマは、フジテレビ開局45周年企画として、2004年11月に放映されました。文化庁芸術祭優秀賞受賞。

 

ドラマのあらすじです。

 

1935年、夏。5歳の陳昌鉉少年は、深い愛を母、千大善(田中裕子)から注がれ、何不自由なく健やかな毎日を送っていた。やがて太平洋戦争が始まり韓国が日本の統治下に入ると、少年たちも軍国主義の波にさらされる。
 

母国語まで奪われ、日本語を強いられることになった時、昌鉉の前に日本人教師、相川喜久衛(オダギリ ジョー)が現れる。1942年のことである。相川がバイオリンを弾くことを知り、一気に昌鉉の心は相川に奪われる。
 

相川の出征、そして父、陳在基(チョン ドンファン)の逝去、と身辺の変化が続いた末に生活は困窮をきたし始め、昌鉉は中学進学を断念しなければならなくなった。相川のような教師になることを夢見る昌鉉は、お金がかからずに中学へ進める日本に渡ることを心に決め、14歳にして母の元を離れることを決意し、日本に渡る。

ストラディバリウスという世界最高峰のバイオリンとの出会いに衝撃を受けた陳昌鉉は、すべてを賭けて独学でバイオリン制作に取り掛かる…

 

 

このドラマには、日本と韓国を代表する名優たちが出演。たとえば、韓国側はチョン・ドンファン、日本側は草薙剛菅野美穂、オダギリジョ—、田中邦衛石坂浩二、田中裕子・・・ 

ドラマを見て、印象に残る場面が二つあります。一つは、田中裕子が演じる昌鉉少年の母親。セリフは全部韓国語で見事にこなし、その流暢な韓国語には努力の跡が残っています。

もう一つ、オダギリジョ—が演じる担任先生の相川と昌鉉少年の友情です。陳昌鉉にとって、相川は忘れられない先生です。相川の言葉の数々が一生涯にわたり心に刻まれることになったのです。

 

2012年、陳昌鉉さんは82歳で亡くなりました。生前、青年時代を過ごした木曽福島町の芸術文化振興事業にも寄与し、2005年に木曽福島町より木曽福島町名誉町民章を授与されました。また2008年には大韓民国政府より国民勲章無窮花章を授けられました。 

 

陳昌鉉さんは、バイオリン製作を通して、日韓の架け橋、東アジアと世界との架け橋の役割を果たしたと言っても過言ではありません。

 

陳昌鉉さんも、陳昌鉉さんが製作したバイオリンも、「平和資源」だと言えます。今一度、『海峡を渡るバイオリン』の本を読み、ドラマを観賞し、陳昌鉉さんの思いを汲み取ってみませんか。

 

私は楽器を弾くことはできないし、作詞・作曲もできません。その意味で、私は音楽について門外漢です。内側から音楽を論じることはできません。外側から音楽を論じるため、平和の人類学と地域研究などを組み合わさって研究手法を用いています。

 

金泉駅

 

2019年5月、韓国に行った際に、陳昌鉉さんの故郷・金泉市を訪ねました。これからも調べ続け、適宜の時にまた追記します。

クラシック界の巨匠ヨーヨー・マを通して地域を読む

ご訪問、ありがとうございます!

本日も音楽関連の人物として、クラシック界の巨匠ヨーヨー・マについて紹介します。

 

下記はヨーヨー・マの略歴です。

1955年フランス生。ハーバード大学卒業(音楽人類学)。

父の馬孝駿は中国寧波生まれで、オーケストラ指揮者、作曲家。

母の盧雅文は香港生まれで、国立中央大学出身の声楽家

ヨーヨー・マの両親は中国を離れパリに渡った後、7歳の時にニューヨークに移り住み、ニューヨーク在住。

幼少の頃よりヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを習い、5歳にしてすでに観衆を前に演奏を行った。7歳の時にはジョン・F・ケネディの前で演奏。

また、8歳でレナード・バーンスタインが行ったコンサートでアメリカのテレビに出演。クラシック音楽から現代音楽までの幅広いレパートリーを持ち、デビュー当時のテクニックは、世界最高ともいわれていました。

 

ヨーヨー・マが2000年に「音の文化遺産」を世界に発信するために、「シルクロード・アンサンブル」を立ち上げました 。

 

この「シルクロード・プロジェクト」構想の基底には、ヨーヨー・マの1981年、奈良の正倉院に残るシルクロード文物の出会い、そして自身のルーツである中国への思いがあったようです。

 

日本では、2005年にNHKで放映された『新シルクロード』のテーマ曲を演奏したことでも話題。ヨーヨー・マの音楽的ルーツに迫ったドキュメンタリー映画ヨーヨー・マと旅するシルクロード』が、 2017年に劇場公開されました。

映画公開した間もない頃、私は当時、中学生だった長男と小学生だった次男を連れて映画見に行きました。

 

 

映画は垣根を越えて新しい音楽の可能性を追求するヨーヨー・マの生き様に迫り、シルクロードにゆかりがあり、様々な歴史的、文化的、民族的、政治的背景を背負った「シルクロード・アンサンブル」メンバーの一人一人を順に追っていきます。

メンバーのルーツを辿りながら、この映画で度々触れられるのは、メンバーの故郷、それぞれの土地固有の文化を紹介しています。

また、映画では、ステージでは見ることのできない音楽創造過程や中国琵琶、尺八、バグパイプなどによる伝統的な東西の音楽と現代音楽とが融合し、国境の越えた音楽そして人間のハーモに―が紡がれ、映画を観る者の心に響きます。

越境人のヨーヨー・マも、ドキュメンタリー映画ヨーヨー・マと旅するシルクロード』も、「平和資源」であると言えます。もっと多くの方に知ってほしいと願っています。これからもヨーヨー・マの音楽を聴き、東アジア地域の探究を続け、適宜の時にヨーヨー・マの続編について書きます。

 

坂本龍一の映像音楽を通して地域を読む

先日、映像音楽の巨匠久石譲の映像音楽を紹介しました。
本日、日本のもう一人の映像音楽の巨匠坂本龍一の映像音楽を通して地域を読み解いてみます。
 
本題に入る前に余談ですが、ブログを先月からスタートして以来、大体毎日フォロアーが5-10名ほど増えています。
フォローしてくださり、ありがとうございます!
読者のなかには、私のこと、熟知している知人もいますが、ほとんどが未対面の方です。
新しい読者が、この先の内容が頭に入りやすくするために、時たま私のバックグラウンドを開示しながら、話を進めさせていただきます。
学部時代は外国語教育、修士課程は日中韓の言語文化の比較研究、博士課程は人の移動と移民研究および東アジア地域研究を専攻しました。研究領域がどんどん広がっていきました。
その理由を簡単に言いますと、ライフワークとしての多文化共生について研究するために、一つだけのアプローチは限界があると思うからです。
あくまで私の考えですが、研究は自己満足のためではなく、研究成果を社会に還元しなければならないと思います。つまり、コンスタントに知識をインプットし、定期的にアウトプットもしなければなりません。
私の場合、インプットは主に読書ですが、また音楽を聴き、映画もみます。そして、定期的に様々な現場に行ってフィールドワークも行います。
アウトプットは、通訳・翻訳、語学研修、オンライン講座など。ブログ記事を書くのも、アウトプットだと考えます。
前置きが長くなりましたが、本日の本題に入ります。
久石譲と同じく、坂本龍一についても改めて紹介する必要もないと思いますが、確認のために略歴を見ましょう。
1952年東京生まれ。3歳からピアノを、10歳から作曲を学ぶ。東京芸術大学大学院修士課程修了。78年にソロ・アルバム『千のナイフ』でデビュー。その後、無数の作品を発表。自ら出演した大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(83)をはじめ、ベルトルッチ監督の『ラスト・エンペラー』(87)、『シェルタリング・スカイ』(90)、イニャリトゥ監督の『レヴェナント』(2015)など30本以上を手掛けた映画音楽は、アカデミー賞を受賞するなど高く評価されている。地球の環境と反核・平和活動にも深くコミットし、「more trees」や「Stop Rokkasho」「No Nukes」などのプロジェクトを立ち上げた。2014年7月、中咽頭癌の罹患を発表したが翌年に復帰。以後は精力的な活動を続けた。2021年1月に直腸癌の罹患を発表し闘病中。自伝『音楽は自由にする』(新潮社、2009)などの著書も多い。
今回、坂本龍一が音楽を担当したベルトルッチ監督の『ラスト・エンペラー』に着目します。
下記はこの映画の情報です。
イタリア・イギリス・中国合作。1950年。5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ送還された中国人戦犯の中に、清朝最後の皇帝、ラスト・エンペラ―宣統帝愛新覚羅溥儀がいた。3歳で清朝皇帝の地位につきながらも、近代化の嵐にもまれ、孤独な日々を送らざるを得なかった溥儀。彼が即位してから文化大革命以降に至るまで、激動の生涯をあますところなく描き出した珠玉の歴史大作。
1987年アカデミー賞では作品、監督、撮影、脚色、編集、録音、衣装、美術、作曲とノミネートされた9部門すべてを受賞。また、甘粕正彦役出演のほか、音楽も担当した坂本龍一は、日本人として初めてアカデミー作曲賞を受賞。

 

ラスト・エンペラー(溥儀)の略歴
• 1906年 生まれ
• 1908年  清朝第11代皇帝(光緒帝)死去
  西太后により擁立され第12代皇帝
•  1912年 辛亥革命(1911年)により退位
•  1924年 クーデターにより北京(紫禁城)を追われ
•  1925年  天津日本租界へ移転    
•  1931年  天津から新京へ(現在の長春
•  1934年  「満洲国」皇帝即位
•  1945年  「満洲国」崩壊にて退位
•  1950年 撫順戦犯管理所に収容
•  1959年  釈放
•  1967年  北京で死去

              偽満皇宮博物館(「満洲国」皇宮跡地) (中国長春
『ラスト・エンペラー』の映像音楽について、NIKKEI STYLEのインタビューを受けて、坂本龍一は次のように述べています。
「監督は『舞台は中国だが欧州の映画だし、戦前・戦中の話だが現代の話でもある。それを表す音楽にしてほしい』なんて難しいことを注文してきた。でも、悩んでいる暇はないので、とにかく西洋風のオーケストラ音楽に中国的な要素を盛り込み、ファシズムの台頭を感じさせるイメージで曲を作ることにしました。」
 
坂本龍一の縦横無尽な想像力を駆使して、作り上げた映像音楽が、この映画の魅力を増しています。
私にとって、地域研究を進める際に、久石譲が音楽を担当したトンマッコルへようこそ(Welcome to Dongmakgol)』および坂本龍一が音楽を担当した『ラスト・エンペラー』は、欠かさない作品です。
 
音楽には脳にひらめきを与える要素があると言われています。
 
私は、定期的に『ラスト・エンペラー』の映像音楽、『トンマッコルへようこそ(Welcome to Dongmakgol)』の映像音楽を聴いています。聴くたびに度に新たなひらめきを得る気がします。
 
参考文献
・坂本 龍一|ソニーミュージックオフィシャルサイト - Sony Music
https://www.sonymusic.co.jp/artist/RyuichiSakamoto/ (2021年8月8日閲覧)
坂本龍一×伊東信宏(音楽学者)「コロナ禍で音楽を考える」──『コモンズ:スコラ vol.18 ピアノへの旅』刊行記念対談 _ GQ Japan
https://www.gqjapan.jp/culture/article/20210724-ryuichi-sakamoto (2021年8月8日閲覧)
ラストエンペラーのテーマ 坂本龍一 the last emperor-theme- ryuichi sakamoto
https://www.youtube.com/watch?v=8TVvJWfzq0s (2021年8月8日閲覧)
坂本龍一 役作り曲作り、『ラストエンペラー』の狂騒|(裏読みWAVE|注目エンタメ|NIKKEI STYLE)
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35963470R01C18A0000000/?channel=DF280120166607 (2021年8月8日閲覧)
坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社、2009年。