【書評】『異文化理解』(青木保、岩波新書、2001年)

本日、文化人類学者の青木保氏の『異文化理解』(岩波新書、2001年)について紹介します。

 

 

出版社内容情報

異文化との接触・交流が拡大した現在、異文化間の衝突、ステレオタイプの危険、文化の画一化など、課題も多い。混成化する文化状況を見据え、文化人類学者としての体験や知見から真の相互理解に必要な視点を平易に論じる。

目次

1 異文化へ向かう(文化は重い;異文化を憧れる)
2 異文化を体験する(バンコクの僧修行;境界の時間;儀礼の意味)
3 異文化の警告(異文化に対する偏見と先入観;ステレオタイプの危険性;文化の衝突)
4 異文化との対話(文化の翻訳;「混成文化」とは;文化の境界に生きる;自文化と異文化)

 

日本人にとって「異文化」といえば​​​​、近隣のアジアの文化を指すことではなく、ヨーロッパやアメリカを指すことが多いようです。青木保氏によれば、「近隣国の中国や韓国を『異文化理解』の対象として正面から捉えるという視点を、近代日本は持つことができなかった」と述べています。

私も異文化理解は遠いところからではなく、身近いところから始める必要があると思います。中国と韓国は日本と一衣帯水の国でありながら、日本の文化と言葉も生活習慣も大きく異なっています。日本・中国・韓国は相互依存しながら、一番摩擦が多い国同士でもあるため、相互の「異文化」を理解する必要があると考えます。

​​中国語と日本語のひびきの違い、その美しさを互いに味わうことから、異文化理解を通してこの相互信頼への道が開かれるものと考えます。これは時間のかかる気長な努力をしなければならないことですが、教育も含め日本社会が全体として取り組む大きな課題だと思います。そうした『異文化理解』を通して、また『自文化』も見出され、日・中・韓のつながりの深さも認識されることになります。​​191-192頁
 
異文化理解にはいろいろな方法がありますが、異文化の理解から自文化の理解に至るという方法もありますし、また自文化を発見して異文化へ到達する、というやり方もあります。
 
多くの場合、世界の文化はどこかで互いに影響しあいながら形成されていますから、特にアジアのように歴史的に古い地域ではどこかでみな交渉しあっているはずです。そのとき自文化を発見するとは、異文化との交流を発見することにほかなりません。190頁
 
「自文化の発見」にはもう一つ、自文化と思っているものをもう一度異文化として捉え直すという意味もあります。シェークスピアの文章は若干のいいまわしや古い表現を除けば今のイギリスの中高生ならそのまま読めると言われていますが、日本語は違います。単語や文体や表記法、字体も様変りしましたが、日本の王朝時代の書物はもちろん、明治以前に書かれたものは、大人でもいまやなかなか読めないものになっています。それだけ違ってしまったのは、すでに一種の異文化と言っていいと思うのです。ひいては現在の日本文化についても誤った理解に到達する恐れがあります。

過去の書物の正確でかつ面白い読み方は、それらに対してきちんと異文化として対するところから始まるような気がします。同様に、日本の過去の文化全体に対しても、異文化理解という視点からもう一度見つめ直す必要があると思います。日本の古代や中世と現在では、言語や制度や基本的な文化要素もかなり違います。文章同様、過去と現在と安易に連続的なものとして捉えることは、自国の歴史や自文化についても正確な理解に達せられない部分があるのではないでしょうか。193頁
 
私は自文化と異文化は、相反するモノでなく、共通する分母をもっています。それはヒトの生き方という共通分母だと思います。外国の文化を研究するということは、必然的に自国の文化を含むことになり、また、自国の文化を理解するためには、それを映し出す鏡として外国文化を知ることが欠かせません。