なかにし礼を通して地域を読み解く
ご訪問ありがとうございます。 本日は小説家、作詞家なかにし礼について紹介します。私はある偶然の機会を得て、なかにし礼について今日にわたり、調べ続けています。
2016年と2017年、私は模擬バスツアーの訪日来道外国人観光客役として、現役の通訳案内士たちと一緒に北海道の観光名所を旅する機会がありました。
2016年、小樽貴賓館(旧青山家別邸)を見学しました後、庭に建てられている石狩挽歌記念碑に気づきました。
恥ずかしいことですが、
その時、「石狩挽歌」は、なかにし礼が作詞した歌だと知りました。
もし、この偶然がなければ、私はなかにし礼との「出会い」が遅くなったと思います。
このような偶然は、セレンディピティと言います。大事な概念なので、ブログをご覧になる皆さんにも共有させていただきます。
脳科学者茂木健一郎氏によれば、
偶然の幸運に出会う能力が「セレンディピティ」。
セレンディピティは、人生が私たちに用意してくれている味わい深いサプライズ。それをきっかけに自分が大きく変わることのできる、かけがえのない福音。
セレンディピティを生かすために必要なのは、何よりも行動すること。
さて、前置きが少し長くなりましたが、なかにし礼(1938年-2020年)が、生まれたのは日本ではなく、中国東北地域の牡丹江です。
私がなかにし礼に親近感を覚えるのは、私の母親も牡丹江生まれです。
牡丹江駅
なかにし礼の両親は、昨日紹介した桑田佳祐の父親と同じく、「満洲」移民体験者です。
元北海道小樽市に在住したなかにし礼の両親は、戦前、「満洲」に渡って、酒造業で成功を収めていました。
しかし、終戦後、「満洲」から引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇しました。この体験が、なかにし礼の以後の活動に大きな影響を与えたと考えられます。
その家族の歴史について、なかにし礼は小説で描いています。例えば、なかにし礼の母親をモデルとした小説『赤い月』があります。
また、この小説を原作とした映画もあります。あらすじは、
繁栄を夢見て小樽から「満洲」の牡丹江へ渡った波子と夫の勇太郎。一から興した森田酒造は瞬く間に栄華を極めた。しかし勇太郎の出張中の1945年8月、ソ連軍の「満洲」に侵攻し、森田酒造は崩壊。波子は子供2人を連れての逃避行が始まる・・・