【書評】『ライフワークの思想』(外山滋比古、ちくま文庫)

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本日は最近、何度も読み返した英文学者外山滋比古氏の『ライフワークの思想』について紹介します。

 

 

内容(「BOOK」データベースより)
ライフワークの花を咲かせることはあらゆる人に可能である。この花は晩年になって始めて結実する。そのためには自由時間の使い方を考えなくてはならない。自分の生きがいとなり、人生の豊かさにつながる、能力の備蓄をすることが必要だ。バッテリーは使い切るまえに絶えず充電しなくてはならない。輝かしい、円熟したフィナーレを迎えられるよう、一日一日の生き方を考えてみよう。

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目次
第1章 フィナーレの思想
第2章 知的生活考(再考知的生活;分析から創造 ほか)
第3章 島国考(パブリック・スクール;コンサヴァティヴ ほか)
第4章 教育とことば(教育の男性化;面食い文化 ほか)

 

 

日本人はこれまで、ヨーロッパに咲いた文明の“花”を切り取ってきて、身辺に飾ることを勉強だと思い、それを模倣することをもって社会の進歩と考えてきた。大学教育なども切り花専門の花屋で、ギリシャ以来の名花をそろえ、これを知らなければ恥だと、学生に押し付けてきた。10頁

 

著者は大学教員だったので、自省的に書いていることが読み取れます。また著者は、“切り花から球根へ”という発想の切り替えが必要だ強調しています。

 

どんなに貧しく、つつましい花であっても自分の育てた根から出たものには、流行の切り花とは違った存在価値がある。それが本当の意味での“ライフワーク”である。12頁

 

著者によれば、ライフワークの花を咲かせるためには、毎週末あるいは毎日の「自由時間」を有効に使うことが重要です。具体例として、“カクテルと地酒”の比喩で考えることにしています。

 

バーテンダーはさまざまな酒をまぜてシェーカーを振れば、カクテルをつくることができ、これを読んだ人は酔っ払うから、そのバーテンダーが酒をつくったような錯覚を抱くかもしれません。しかし、実は一滴の酒もつくってはいません。酒でないものから酒をつくった時、初めて酒をつくったと言えます。

 

もちろん、すばらしいカクテルをつくってくれる人も必要だが、それで、酒をつくったように錯覚してはならないのである。すべての原料がそろったとしても、酒は一日にしてできるものではない。(中略)この”ねかす”期間は、多忙な仕事時間だと思う。身過ぎ世過ぎの仕事に追われて、しばし、酒造りのことを忘れるのは、むしろ、いいことといわねばならない。ふっとわれにかえって、ああ、自分には酒が仕込んであったのだと気づく。すると胸が妙に熱くなる。家路に急ぐ。こういう生活こそが自分の地酒をつくる基盤である。15頁

 

酒をつくるために、時間をかける必要があるように、著者によれば、自由な時間を上手に使うということは、やれゴルフだやれマージャンだと、ぎっしりつまったスケジュールをこなすことではなく、充実した無為の時間をつくることであると書きます。

 

自分だけの時間をつくることは、長い目でみれば、いちばんの精神的な肥料になる。自分のつちかった球根が芽をふき、芽をのばしたあと、どれだけ大きな花を咲かるかは、過去にどの程度、実りある空白があったか、充実した無為があったかにかかっている。19-20頁

 

著者は自由の時間や空白の時間を、囲碁にたとえながら、しみじみと語っています。

 

石と石んも間をぐっと離して、一見、関連のないような布石をすることだ。やがて、人生の収穫期に達した時、離れたように見えた石と石とが、おのずからつながって“盤上ことごとくわが陣地なり”という終局を迎えることができる。これが、ライフワークである。20頁

外山氏によれば、ライフワークという言葉は、この頃簡単に使われているが、なるほどここにライフワークがあると仰ぎ見るような仕事が案外少ないです。それで、ライフワークを気軽に口にすることより、これを人生において実現するためにもっと努力すべきだと辛口で書いています。

 

この節でも、外山氏は、“カクテルと地酒”の比喩で筆を進めています。

 

 

今の日本人の知識やものの考え方は、だいたいにおいてカクテル式である。よさそうな思想や技術を他人から借りてくる。24頁

 

われわれが文化とか学問とか科学技術とかいっているきわめて多くのものが、実は舶来の酒を台にしたカクテルにほかならない場合が多い。せっかく外国からスコッチやブランデーが入ってきているのに、わざわざ下手な地酒をつくるのは間尺に合わないことだと秀才は思い、やがて、カクテルが唯一のアイコールだと思い込んでしまう。25頁

 

酒の比喩での話が続いています。

 

ビールをつくるには麦が必要だ。どんなに醸造の経験があっても、麦がなければビールはできない。人生の酒に必要なのは経験である。この経験を本などを読んで代用したのでは、カクテルになってしまう。やはり、その人が毎日生きて積んだ経験というものを土台にしなけばならない。26-27頁

 

酒の比喩のほか、ライフワークを考えるのに、外山氏はマラソンを例として書いています。

 

人生にも、マラソンと同じ折り返し点を設けたい。われわれの一生の歩みを、仮に平均から八十年として、十歳から四十五歳までと、四十六歳から八十歳まで、どちらも日数に直すと約一万二千余日になる。これがマラソンでいう往路と復路で、一万二千日むこうへ走ったら一万二千日こちらへ還ってくる。29頁
たしかに前へ走ることは進歩だ。だが、折り返し点ではそれまでの価値観をひっくり返して、反対側に走ることがすなわち前へ進むことになる。マラソンレースでなら小学生にもわかる理屈だが、人生のマラソンにおいては、折り返し点を過ぎたら、今までと逆の方向に走るということが、プラスなのだという発想の転換に達するのは生やさしいことではない。30頁

 

私は40代後半になり、人生のマラソンの折り返し点を過ぎていますので、著者の哲学的な言葉が至宝です。著者は辛口で書いています。

 

エリートが齢をとるとだんだんつまらない人になってくるのは、彼らが一筋の道を折り返しなしに走っているからだろう。30頁

 

著者は辛口だけを書くわけではなく、心理医師のようにアドバイスもします。

 

前半の四十五歳くらいまでは、なるべく個性的に、批判的に、そして自分の力で生きてゆくのが、その人間を伸ばす力となるが、折り返し点をまわった人間は、もう少し小さな自分を捨て、いかにして大きな常識をとり込んでゆくかを考える。ときには純粋でないものがあっても、それがコクのある酒には必要なものではないかと気がつくようになる。30頁

 

”余生”というが、われわれのマラソンには、余生などというのがあってはならない。隠居を考える人生は碁や将棋でいう“終盤の粘り”に欠ける。もうだいたい勝負はついてしまった、と早いところで勝負を投げてしまうのが、どこが人生を達観しているようで、“いさぎよさ”といったようなもので把えられているのではないか。やはりわれわれは、最後の最後まで、このレース、勝負というものを捨ててはいけない。あと何目か石を置けば、この死んでいるように見える石が生きかえるかもしれない。それをその石を置きそびれたために、それまでのたくさんの仕事をのたれた死にさせることがあるかもしれない。 32頁

 

ライフワークとは、それまでバラバラになっていた断片につながりを与えて、ある有機的に統一にもたらしてゆくひとつの奇跡。個人の奇跡を行うことにほかならない。34頁

 

 

外山氏は2020年に96歳で亡くなりました。生前は膨大の著書を書き残し、特に代表作『思考の整理学』は、なんと驚異の126刷、263万部を突破しました。ゆるぎないフィナーレの思想で、奇跡を行い続けました。