【書評】『辺境から眺める――アイヌが経験する近代』

本日、日本経済史、思想史を専攻するテッサ・モーリス=鈴木の『辺境から眺める――アイヌが経験する近代』(みすず書房、2000年)について紹介します。テッサ・モーリス氏は、1951年イギリス生まれで、現在、オーストラリア国立大学教授を務めています。本書ではアイヌ民族が、日本とロシアという、二つの近代国民国家に組み込まれ/引き裂かれていったことを多面的に考察しました。

 

 

 

目次
序 辺境から眺める
第1章 フロンティアを創造する―日本極北における国境、アイデンティティ、歴史
第2章 歴史のもうひとつの風景
第3章 民族誌学の眼をとおして
第4章 国民、近代、先住民族
第5章 他者性への道―二〇世紀日本におけるアイヌアイデンティティ・ポリティクス
第6章 集合的記憶、集合的忘却―先住民族、シティズンシップ、国際共同             終章 サハリンを回想する

本書の目的は、

研究者たちが信じてきたあるいは信じさせられてきたものより、先住民社会がより「進歩」していたと論証するものではない。いやむしろ、一部の研究者たちが自明のものとして有する、たとえば「進歩」といった潜在的想定そのものに異議を申し立てたい。17-18頁

本書では、「辺境」が重要なキーワードとなっています。辺境の重要さについては、著者は下記のように述べています。

 

辺境は重要である。なぜなら、辺境という存在が、国史を、地域史を、ひいては世界史を違った視座から再訪する旅の出発点となり、国家/国民という中心からは不可視されかねない問題を提起しうるからである。4頁

著者によれば、江戸時代まで、アイヌ社会が少なくとも2つの形態の農業を営んだと言います。第1の形態は犬の飼育。第2の形態は、モロコシ、キビ、豆、野菜の耕作といったものです。

第1章では、著者はアイヌの歴史物語を観察することによって、過去にかかわる構想がもつ固有な、そして構造的な問題を明確化しようとしてます。

 

日本の近代国家の形成には、明確に定まった国境を設定し、その境界内の人びとと全員にある形態の国民的アイデンティティを強制的に課すことが必要とされた。・・・国民国家には、マイノリティとは「わたしたち」であると同時に、「わたしたちではない」ものでもあるという両義性的なイデオロギーが残された。62頁

 

第2章では、アイヌ社会の歴史経験はたった一つの独特な経験なのではなく、世界の諸地域に無数に存在する小社会の経験をも反映していることを考察しています。

17,18世紀の商業資本主義の拡大にともない世界規模の経済システムに強引に編入された。毛皮、魚、その他の自然資源の物質的開発=搾取は、先住民経済にみられた既存の均衡を混乱させ、狩猟のような活動がはたす役割の重要性が増加し、よりいっそう不安定な生存様式へと先住民族共同体を押しやっていった。85頁

 

第3章では、複雑でダイナミックな先住民族の帰属形態を、近代的な概念で、捉えることができるかと著者自問します。

1905年、日露戦争後、日本はサハリン島の南半分の統治権を得た。国境線は島の中央に引かれ、北緯50度の線に沿って、ロシアの領土と日本の領土が区切られた。この境界は、まさに近代の国境線だった。87頁

 

第4章では、20世紀初頭から中葉にかけてのいくつのロシアと日本の事例を検証・解体することで、多種多様な文化的マイノリティの位置にかかわる厄介さを具体的に描き出しています。

第5章では、アイデンティティという問題を、近代日本におけるアイヌの活動と国民国家の関係を通して検討しています。第6章では、シティズンシップに着目して、先住民族が取り巻く状況について論じています。

 

終書では、1996年、著者はサハリン行きのフェリーで出会ったさまざまな人びと(樺太生活体験のある日本人、ニヴフウィルタ、在サハリン朝鮮人・・・)の記憶を聞いた。それをふまえ、著者は自身の記憶とも総括して、記憶について以下のよいに述べています。250頁

 

国家のような巨大な「記憶」、アイデンティティ集団の小さな「記憶」、そしてさらに小さな「記憶」は、相互にうまく噛み合う性質のものではなく、多層多重に絡み合い、対立する。「記憶」がより大きく、かつ、一般化すれば、より明瞭に、かつ、単純化される。国家あるいは大陸レヴェルでの「記憶」は、正邪、勝敗を語るのがたやすい。一方、アイデンティティ集団や個のレヴェルでの「記憶」は、すべてが不明瞭で複雑化するのである。なぜなら、「回想」とは、地理的なそして倫理的な境界線を無視して、自由な奔流となるからなのだ。忘れてはならないのは、すべてのレヴェルでの「記憶」の保持である。国家的あるいは地球的規模で、過去に賦与された範疇と意味とにかかわる継続的な検証は重要。同時に、複雑さや曖昧さを内包する地域的、少数者的、そして個的な「回想」という歴史群の存続を、可能にさせる余地を設けるのも、また最重要事なのである。

 

  • 個人的には、終章がいちばん読み応えがあった。著者は該博な知識を持ち、歴史学、経済学、社会学/人類学?などの研究手法を駆使して論を進めた。また、アイヌ民族に関わる問題を先住民の問題だけではなく、広く東アジアの問題/国際情勢と絡めながら論じています。
  • 著者は巨視的・複眼的に物事を見ている。アイヌ民族のことを、オーストラリアの先住民であるアボリジニと比較しながら、先住民が置かれている(いた)類似性を描き出しました。
  • 著者は先住民がおかれている複雑な状況を批判的に検討し、外部の者(アウトサイダー)と謙虚に認めながら、内部の者(インサイダー)が見えないものを提示してくれました。