久石譲の映像音楽を通して地域を読む

本日、久石譲の映像音楽を通して東アジアを読み解いてみます。

 

久石譲は作曲家として数々の魅力的な作品を世に送り出し、2021年4月からは日本センチュリー交響楽団の首席客演指揮者に就任するなど、指揮者としての活動にも注目が集まっています。

あらためて、紹介する必要もないと思いますが、念のために略歴を確認しましょう。

 

久石譲は、1950年に長野県出身、国立音楽大学卒業。在学中からミニマルミュージックに興味を持ち、現代音楽の作曲を始めます。1981年、初のプロデュースアルバム「MKWAJU」を発表。「風の谷のナウシカ」(1984)を皮切りに宮崎駿監督の長編アニメの音楽家として活躍し、「千と千尋の神隠し』や「となりのトトロ」、「風立ちぬ」まで10作品の音楽を手がけました。

 

そのほか、高畑勲監督の長編アニメ「かぐや姫の物語」、李相日監督作「悪人」、山田洋次監督作「東京家族」、福澤克雄監督の「私は貝になりたい」、北野武監督の 「HANA-BI」 、米国アカデミー賞外国語映画賞に輝いた滝田洋二郎監督 「おくりびと」 などの映画作品の音楽を担当。文句なしの映画音楽の巨匠と言えましょう。日本アカデミー賞最優秀音楽賞、紫綬褒章受賞など数々の賞受賞。

近年、海外作品の音楽監督も多数務め、中国映画 『おばさんのポストモダン生活』 では、第27回香港アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞、韓国映画トンマッコルへようこそ(Welcome to Dongmakgol)』 では、大韓民国映画大賞最優秀音楽賞するなど、海外においても高い評価を得ています。

今回は主に、韓国映画トンマッコルへようこそ(Welcome to Dongmakgol)』に着目して、久石譲映像音楽の魅力を発見しましょう。

 

 

下記は、映画のあらすじです。

舞台は朝鮮戦争が激しさを増していた1950年11月。太白山脈の奥地にトンマッコルという小さい村があった。トンマッコルとは「子供のように純粋な村」という意味。

そんなある日、村に3組の不思議な客がやってきた。米国空軍のパイロット、スミスの飛行機がトンマッコルの村の近郊で墜落。村人たちの手厚い手当てを受けていると、そこに韓国人兵士のピョらがやって来る。

また、そこに村の少女ヘイルに案内された北朝鮮人民軍の兵士リらが現れる。敵対する兵士たちが鉢合わせとなり、その場は一触即発の危機に陥る。最初は敵対していた韓国軍兵士と人民軍兵士だったが、村に親しんでいくうちにいつしか互いの敵対心が消えていくようになる。

 

この映画は、2005年韓国で最も愛された映画、公開直後からその面白さと感動が口コミで広がり、韓国国民6人に1人が見る大ヒットをヒットしました。

映画の監督はパク・クァンヒョンさん、音楽担当は久石譲さん。2006年秋日本でも上映。マスコミ向け完成披露試写とパク・クァンヒョン監督と音楽の久石譲さんによる舞台挨拶が行われました。その際の、パク・クァンヒョン監督の挨拶の一部を聞きましょう。

 

子供の頃から久石さんの音楽が大好きで、実はこの作品のシナリオもずっと久石さんの音楽を聴きながら書いていました。今回、プロデューサーに久石さんに依頼して欲しいとお願いしたときには、震えるような思いでした。そして引き受けて下さると知ったときは、それまでなかったくらいの歓声を上げて喜びました。

初めて音を聞いたとき感動して泣いてしまいました。正直な気持ちをお話しますと、音楽を入れていない状態では映画というより取るに足らない小道具のような、そんな印象があったのです。久石先生の音楽を入れることによって、この映画に命を吹き込むことができたと思います。音楽が入った後に観ますと、とても大きい映画に見えましたし、感動的でそして神秘的な映画に仕上がったと思っています。

 

この映画は、戦いに疲れた兵士たちが“心”と “笑顔”を取り戻していく物語です。難しい状況のなかで、共に生きるために、どうすればいいか、というパク・クァンヒョン監督の問いが含まれています。

 

日韓関係がギクシャクしている今、この映画を観る価値はあると思います。

 

参考文献

久石譲オフィシャルサイト

http://www.joehisaishi.com/biography.php

・「作家で聴く音楽」 久石譲JASRAC

https://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_21/inner3.html (2021年8月8日閲覧)

・『トンマッコルへようこそパク・クァンヒョン監督&久石譲舞台挨拶レポート

http://www.cinemajournal.net/special/2006/dongmakgol/index.html

久石譲『音楽する日乗』小学館、2016年。

加藤登紀子さんを通して地域を読む

ご訪問、ありがとうございます。本日、加藤登紀子さんについて紹介します。

もう20年も前、日本に来て間もない頃、知床に旅行しに行ったことがあります。行く前に、知人から知床と言えば、「知床旅情」だね、と言われました。それで、「知床旅情」について調べてみました。

作詞・作曲は森繁久彌、唄は加藤登紀子。しかも、加藤登紀子さんは、自分と同じハルビン生まれなのだ!嬉しい驚きでした。親近感を覚えました。カセットテープを買ってよく聞きました。

 

 

周りの留学生に古いねと笑われたこともあります。当時、周りはSMAPサザンオールスターズ安室奈美恵などを主に聞いていました。

誤解を避けるために言いますが、SMAPサザンオールスターズなども好きです。ただ、同じ故郷出身の加藤登紀子さんに特に親近感を覚えています。

加藤登紀子さんのオフィシャルサイトに基づいて、略歴を見てみましょう。

1943年中国東北部ハルビン市生まれ。

1965年、東京大学在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。

1966年「赤い風船」でレコード大賞新人賞、1969年「ひとり寝の子守唄」、1971年「知床旅情」ではミリオンセラーとなりレコード大賞歌唱賞受賞。
以後、80枚以上のアルバムと多くのヒット曲を世に送り出す。

国内コンサートのみならず、1988年、90年N.Y.カーネギーホール公演をはじめ、世界各地でコンサートを行い1992年、芸術文化活動における功績に対してフランス政府からシュバリエ勲章を授けられた。
近年は、FUJI ROCK FESTIVALに毎年出演し、世代やジャンルの垣根を超え観客を魅了し続けている。

また年末恒例の日本酒を飲みながら歌う「ほろ酔いコンサート」は45年以上続いていて人気のイベントとして定着している。

歌手活動以外では女優として映画『居酒屋兆治』(1983年)に高倉健の女房役として出演した。
宮崎駿監督のスタジオジブリ・アニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としてマダム・ジーナ役を演じた。

地球環境問題にも取り組み、1997年WWFジャパン顧問及びWWFパンダ大使就任。
2000~2011年には環境省・UNEP国連環境計画親善大使に就任。

アジア各地を訪れ、自らの目で見た自然環境の現状を広く伝え、音楽を通じた交流を重ねた。・・・・・・

 

加藤登紀子さんと言えば、歌手というイメージが強いですが、略歴を見て分かるように、女優として、声優として、また地球環境問題にも取り組んいます。

それに著書も多いし、新聞や雑誌などにも積極的に発信しています。そのうち、戦争を反対する力強いメッセージもあります。

その経緯は、加藤登紀子さんの父の加藤幸四郎さんが、戦前、徴兵されて戦争体験を持つこと、また戦後、苦労の末、日本に引き揚げてきた家族史を持つことが考えられます。

1995年、加藤登紀子さんは、両親と一緒にハルビン訪問しました。その時、加藤登紀子さんは、母の加藤淑子さんと引き揚げの時に歩いた線路を歩きました。

加藤登紀子さんは、両親の体験を追体験しただけではなく、1945年前後の東アジアの歴史も追体験したと思われます。

 

今回、加藤登紀子さん(の家族史)を通して東アジアを読み解いてみました。今後の加藤登紀子さんの活動にも注目します。

 

最後に加藤登紀子さんの著書『運命の歌のジグソーパズル』の序文を借りて、文を閉じます。

 

 

歌は素晴らし旅人です。

人が歌うことを知ってから、この地球の上をどれほどの人が旅をしたことでしょう。

新しい自分に出会うために・・・

愛しい故郷を取り戻すために・・・

人には国境があり、故郷があり、時には無残に引き裂かれもします。

でも歌にはパスポートが要りません。

 

参考文献

加藤登紀子 オフィシャルサイト

https://www.tokiko.com/profile.html

毎日新聞 Tokiko’Kiss 対談 加藤登紀子×河野洋平「戦争しない国のブランド守る」2015年8月3日

毎日新聞 特集ワイド 「この国はどこは これだけは言いたい」2021年2月15日。

・加藤淑子著、加藤登紀子編『ハルビンの詩(うた)がきこえる』藤原書店、2006年。

加藤登紀子『運命の歌のジグソーパズル』朝日新聞出版、2018年。

なかにし礼を通して地域を読み解く

ご訪問ありがとうございます。                   本日は小説家、作詞家なかにし礼について紹介します。私はある偶然の機会を得て、なかにし礼について今日にわたり、調べ続けています。

2016年と2017年、私は模擬バスツアーの訪日来道外国人観光客役として、現役の通訳案内士たちと一緒に北海道の観光名所を旅する機会がありました。

2016年、小樽貴賓館(旧青山家別邸)を見学しました後、庭に建てられている石狩挽歌記念碑に気づきました。

恥ずかしいことですが、

その時、「石狩挽歌」は、なかにし礼が作詞した歌だと知りました。

もし、この偶然がなければ、私はなかにし礼との「出会い」が遅くなったと思います。

このような偶然は、セレンディピティと言います。大事な概念なので、ブログをご覧になる皆さんにも共有させていただきます。

脳科学茂木健一郎氏によれば、

 

偶然の幸運に出会う能力が「セレンディピティ」。

セレンディピティは、人生が私たちに用意してくれている味わい深いサプライズ。それをきっかけに自分が大きく変わることのできる、かけがえのない福音。

セレンディピティを生かすために必要なのは、何よりも行動すること。

さて、前置きが少し長くなりましたが、なかにし礼(1938年-2020年)が、生まれたのは日本ではなく、中国東北地域の牡丹江です。

私がなかにし礼に親近感を覚えるのは、私の母親も牡丹江生まれです。

                  牡丹江駅

 

なかにし礼の両親は、昨日紹介した桑田佳祐の父親と同じく、「満洲」移民体験者です。

元北海道小樽市に在住したなかにし礼の両親は、戦前、「満洲」に渡って、酒造業で成功を収めていました。

しかし、終戦後、「満洲」から引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇しました。この体験が、なかにし礼の以後の活動に大きな影響を与えたと考えられます。

その家族の歴史について、なかにし礼は小説で描いています。例えば、なかにし礼の母親をモデルとした小説『赤い月』があります。

 

 

また、この小説を原作とした映画もあります。あらすじは、

繁栄を夢見て小樽から「満洲」の牡丹江へ渡った波子と夫の勇太郎。一から興した森田酒造は瞬く間に栄華を極めた。しかし勇太郎の出張中の1945年8月、ソ連軍の「満洲」に侵攻し、森田酒造は崩壊。波子は子供2人を連れての逃避行が始まる・・・

 

なかにし礼は、昨年12月に82歳で亡くなられました。しかしこれからも、書いた小説は読まれ、作詞した歌は歌い継がれると信じます。

 

なかにし礼は生前4000曲も作詞しました。

 

私は偶然=セレンディピティを生かして、

なかにし礼を通して、日本ないし東アジアを読み解く作業を始めました。

なかにし礼から学ぶべきものは多い!

しかしまだ、なかにし礼の表層しか分かっていないと自覚しています。なかにし礼の深層ないし平和思想を読み取れるように、1冊も多く小説を読み、一曲でも多く歌を聞くようにしたいと考えます。

 

参考資料

なかにし礼 オフィシャルサイト

http://www.nakanishi-rei.com/bio.html

なかにし礼『歌謡曲から「昭和」を読む』NHK出版新書、2011年。

なかにし礼『赤い月』新潮社(上下)、2001年。

・映画「赤い月」原作:なかにし礼、監督:降旗康男、主演:常盤貴子ほか

茂木健一郎セレンディピティの時代』講談社文庫、2009年。

SMAPを通して地域を読む

ご訪問ありがとうございます。

連日、スポーツ関連の話題について書きました。その延長線上に、本日はSMAPについて紹介します。

 

 

なぜSMAPなのか?

 

たくさんの理由はありますが、

今回、(1)SMAPの語源について、(2)SMAPの越境性(主に中国への越境)について紹介します。

本題に入る前に、私のスタンスを表明します。

SMAPが解散したことは、今でも残念がっています。

1つ目、SMAPの語源についてです。

SMAPとは、Sports Music Assemble Peopleの略です。

つまり、「スポーツと音楽の融合」、「スポーツと音楽をするために集められた人々」の意味です。

見て分かるように、SMAPの「Sports Music Assemble People」のなかに「スポーツ」が入っています。

ちょうど、オリンピック開催期間なので、「スポーツ」についてみましょう。「スポーツ」といえば、競技スポーツの意味合いが強いですが、

その語源を調べてみますと、

 

          s・port=dis・port

 

港から離れることから、

全ての拘束から解放されて、遊ぼうよ、楽しもうよ

 

つまり、スポーツは元々、「遊び、楽しみ、暇つぶし」という意味です。

 

2つ目、SMAPの越境性についてです。

 

SMAPは日本だけではなく、韓国や中国でもよく知られています。

特にキムタクが出演した数々のドラマは、今でも語り草となっています。

 

ここで、ひとつ余談の話。

大体15年前のことですが、北海道大学で開催したあるスポーツシンポジウムで中国語の通訳を担当しました。

中国側参加者の一人が晩餐会で、半分冗談を交えて言いました。

奥さんはキムタクのドラマをばっかりみて、テレビのチャンネルを独占するので困っている!

SMAPの歌、『夜空ノムコウ』や『世界に一つだけの花』などは、今でも歌い継がれています。

特に、SMAPの『世界に一つだけの花』の中国語版《世界上唯一的花》があります。

解散前のSMAPの皆さんが中国語で歌ったのです。

歌唱力が高く、素敵な歌です!

今もよく聞きます。中国語研修を行う際には、かならず紹介する一曲です。

2011年9月16日、SMAPがデビューして以来、北京の工人体育場で初の海外コンサートを行いました。

当時、私は北海道大学北京事務所で勤務していました。コンサートに行きたかったのですが、残念ながらチケットが入手できなくて行けませんでした。

SMAPのファンの一人として、今回のブログは、『世界に一つだけの花』の中国語版を聞きながら書きました。

参考文献

太田省一SMAPと平成ニッポンーー不安の時代のエンターテイメント』光文社新書、2016年。

SMAPについて紹介する中国語サイト

https://baike.baidu.com/item/SMAP/9502?fr=aladdin

・2011年、SMAPの北京コンサート開催情報

http://j.people.com.cn/94475/203149/index.html

・『世界に一つだけの花』中国語歌詞

https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%8A%E5%94%AF%E4%B8%80%E7%9A%84%E8%8A%B1

初の韓国人Jリーガーを通して地域を読む

昨日に続き、もう少しサッカーの話をします。

東アジアのサッカー界において三浦知良(カズ)に匹敵する

もう一人のパイオニア的な人物がいると思います。

 

その名前は、盧廷潤(ノジョンユン)です。 

Jリーグ開幕当初を代表する外国人選手として、盧廷潤の名前を挙げる人が多いでしよう。

 

  盧廷潤は、初の韓国人Jリーガーです。

 

盧廷潤は1971年、韓国の京畿道仁川市(現・仁川広域市)に生まれました。

幼い頃からサッカーボールを追いかけ、高校卒業後、名門の高麗大学校へ進学しました。

大学在籍中の1990年に、韓国代表に招集を受けました。

 

韓国サッカーの将来を担う選手の日本への移籍は、

当時韓国で大きく取り上げられ、非難されました。

当時、Kリーグでの年棒Jリーグより高かったです。

移籍の理由は、ジーコ(元ブラジル代表)やリネカー(元イングランド代表)がいる日本で自分の力を試したいという盧の願望でした。

 

盧廷潤は、

「サッカー人生、私は安全よりも冒険を求め、安定よりも変化を求めてきた」と述べます。

 

盧廷潤は、35歳で現役を引退しました。

しかし、盧廷潤は韓国と日本のサッカーファンに愛され続けるでしょう。

盧廷潤の後、ぞくぞくとJリーグに入る韓国人選手が多い。

 

これはひとえに、

盧廷潤の韓国と日本を繋げた功績があってのことを忘れてはなりません。

 

盧廷潤は、日韓共催FIFAワールドカップの直前に出版した単著の最後の3行には、下記のように書いて、締めくくりました。

 

大会(日韓共催FIFAワールドカップ)の成功だけがすべてではない。

その結果が、必ず次の世代につながるように、

日本も韓国もこれから努力していかなくてはならない。

 

参考文献

盧廷潤著、二宮清純監修『日韓サッカー文化論』講談社現代新書、2002年。

サッカーを通して地域を読む

本日は、サッカーについて書きます。
このテーマもだいぶ前から温めてきました。サッカーと言えば、ブログをご覧の皆さんは、何を連想しますでしょうか。
オリンピック、ワールドカップ中田英寿、キングカズなど連想できるのではないでしょうか。
私はワールドカップとキングカズを思い浮かびます。まず、キングカズについてです。

 

 
キングカズのこと、元日本代表FW三浦知良が、2021年1月11日に、サッカーのJ1横浜FCとの契約を更新したのですね。
 
54歳での契約更新!
驚かずにはいられない、カズの飽くなき挑戦!
 
三浦はブラジル時代も含めてプロ36年目を迎え、クラブを通じて
「サッカーに対する向上心と情熱は増すばかりです」
とコメントを出しました。(日本経済新聞電子版 2021年1月12日)
 
私が小学生の時、すでにカズの名前を知っていました。
 
               sān  pǔ  zhī  liáng(中国語)
               三  浦  知  良
 
サッカー好きな叔父の影響で、良く一緒にテレビでカズのプレーを見ました。
当時、サッカーのルールさえもよく分からなかったのですが、なぜかサッカーを楽しめました。
今、考えれば、サッカーを見たよりは、カズのパフォーマンスを見たのです。特にゴールを決めた後のカズダンスが、印象的でした。
明るくて、陽気な人!見るだけで元気になります。
すっかりカズのファンになりました!
データ調査はしていないですが、控えめに言っても、中国には少なくとも1000万以上のカズファンがいると思われます。
そのなかの一人は、今、北海道にいます。
私が日本に留学したのは、もちろん語学好きな理由があります。
しかし、カズのファンであることも、日本留学を決めた理由の一つです。
 
高中1年のときに単身ブラジルに渡って異文化探検。
1993年の「Jリーグ」誕生の立役者!
 
敬意を払います!
 
カズの本や雑誌を買い集めて読み、大事に保存しています。
次は、ワールドカップについてです
2002年、外国語ボランティアとして、日韓共催FIFAワールドカップに参加しました。
北海道札幌で三試合がありました。
 
 
約20年前のことですが、当時の記憶が鮮やかに残っています。
ボランティア活動のため、もらったファイルバインダと「六ヵ国語会話ガイド」を今も大事にしています。
日韓共催FIFAワールドカップの後、『冬のソナタ』などの韓流ドラマの影響もあり、良好な日韓関係が続きました。
しかし今は、ギクシャクした関係になってしまい、残念に思います。
日韓共催FIFAワールドカップや韓流ブームで結んだ絆を断ち切らないことを願っています。
三浦知良は韓国においてもよく知られています。
 
                   「미우라 키즈요시(韓国語)」
 
三浦知良(sān pǔ zhī  liáng、미우라 키즈요시)」も「日韓共催FIFAワールドカップ」も「平和資源」だと考えます。絆を断ち切らないために、一人一人が<一人称>になって、語り続けることが大事だと考えます。
 
三浦知良『やめないよ』新潮新書、2011年。
三浦知良『とまらない』新潮新書、2014年。
三浦知良についての紹介(中国語)

https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%9F%A5%E8%89%AF/42129?fr=aladdin

辛ラーメンを通して地域を読む

本日は、昨日の話に続き、辛い食べものについて書きます。

昨日、夏になると無性に辛い料理が食べたくなる理由は、トウガラシをはじめとする辛味系スパイスの発汗作用が関係しているからだと説明しました。

本日、辛ラーメンについて紹介します。

          ここで、一つ質問です。

  「辛ラーメン」と名付けられた理由は、なんでしょうか?

 

一見ばかげた質問を見て、怒る方もいるかもしれません。

「人をバカにするな。辛いから辛ラーメンだよ!」

その気持ちはよく分かります。昨年の3月まで、私もそう思い込んでいました。

回答は違います。答え合わせは後ほどしますが、怒ったりすると頭に血が上あり、身体が熱くなります。

私は自分自身にいつも言い聞かせており、クールダウンして物事を考えよう。

       まず、辛ラーメンとは?

辛ラーメンは1986年に発売され、辛味を好む韓国人の食欲をとらえ、インスタントラーメン市場に辛味旋風を起こしました。

韓国はインスタントラーメンの消費量世界1位だと言われます。

韓国でラーメンと言えば辛ラーメンを指すのが普通です。韓国のインスタントラーメン市場では、連続市場占有率首位を維持しており、世界70カ国以上に輸出されています。

 

       そろそろ答え合わせをしましょう。

辛ラーメンと名付けられたのは、辛ラーメンの開発者として知られる、韓国食品大手「農心(ノンシン)」創業者の辛春浩(シン・チュンホ)氏の“辛”という苗字からとったのです。

辛春浩氏は今年3月27日に死去しました(享年90歳)。訃報は日本でもニュースになりました。

日本でインスタントラーメンが発祥され、「農心」が製造していたインスタントラーメンは、当初は「日清食品」の商品を模したものだったことは、想像に難くないでしょう。

 

昨日、スーパーで辛ラーメンを買いました。辛味系スパイスで身体の発汗作用を促すため、思い込みへの反省を込めて辛ラーメンを食べました。

日本の著名な文化人類学者である青木保氏はかつて、「切手1枚からでも異文化を理解することができる」と語っていました。

異文化を理解するには、遥か遠くのつかみどころのないものを追いかけるのではなく、身近にある些細なことから始めるのがよいと私は思っています。

辛ラーメンを通して韓国や韓国の食文化への理解ができると考えます。

参考文献

青木保『異文化理解』岩波新書、2001年。